2005年11月のプチ日記

 

11月30日(水曜) 深夜

 ぼくは小心者なので、職場のデータのバックアップを結構まめにとっている。

 そしたら同僚から言われた。「名倉さんってバックアップの鬼ですよねー」

 「○○の鬼」という呼び名は社内でもときおり耳にする。それは「営業の鬼」であったり「値切りの鬼」であったりするわけだが、いずれも尊敬と畏怖とが入り交じった、鬼の名にふさわしい人物だった。

 しかしぼくの場合、「バックアップの鬼」である。こんなセコい鬼など聞いたことがない。

 なにしろ、ヒョウ柄のパンツに金棒を振り回しながら、ものすごい形相で叫びまわるのだ。

 「ウォーッ! おれがバックアップを取ろうかァー!! 片っ端からバックアップを取ってくれるわーッ!!」

 …でも実は、鬼と言われてちょっと気分がいい。ウキウキするぜ。

−−−

 そういや、なにかに熱を上げている人を指す表現としては、「○○の虫」や「○○キチガイ」などもある。

 バックアップみたいな些事については、「鬼」よりも「虫」とか「キチガイ」のほうがふさわしい気もする。

 でも、だったらラグビー選手は「ラグビーの虫」、ボクシング選手は「ボクシングの虫」である。

 釣りキチ三平なんかも差別表現になるから、さっさと「釣り虫三平」あたりに改名すべきでしょうな。

 

11月29日(火曜) 深夜

 ここ半月ほど、全く酒を飲んでいない。

 酒を飲む習慣のない人にとってはなんてことのない話だと思うが、今までのぼくの生活(1年のうち360日くらいは飲んでいた)からすると結構な変化である。それも、週末は一日にビール2〜3リットルは飲んでいたのだから、自分としてはまさに青天の霹靂。

 …といっても、べつに肝臓を壊したわけでもないし、病気をしたわけでもない。その理由はただ単に、「酒を飲むのがめんどくさくなったから」。

 いまでも酒が好きなことに変わりはないのだが、飲んだ後のあれこれが面倒になってきたんである。寝る前に飲むとおしっこが近くなるから、せっかく寝てもすぐトイレに行きたくなる。するとあまり眠れず翌朝しんどいし、眠いまま仕事するなんて面倒以外のなにものでもない。

 おまけに週末は大酒を飲むから、翌日はひどい二日酔いに悩まされる。それを防ぐべく、いろんな薬を買い求めたり、食事に気を遣ったり。

 ふり返ってみると今まで、「自分へのほうび」として酒を飲んでいた気がする。二日酔いでしんどい一日をやり過ごした日は、それだけで疲れて頑張った気になるから、そんな自分へのほうびとして「酒でも飲むか」ということになる。

 しかし酒をやめてみると、毎日がちっともしんどくないから、ほうびがなくてもまあいいかという気になってくる。こうなると、酒を飲む理由がなくなる。その結果、飲まなくてもいいということになる。まったく莫迦みたいな話である。

 「めんどくさいから酒も飲まない」

 こういう人間が増えたら、世の中はどんどん衰退していくんだろうなと思います。

−−−

 でも、人と飲む酒は、今までどおり変わらずガブガブいきますので。酒を飲まない生活が窮屈で面倒になってきたら、また飲み始めますので。

 健康のためとかではないので念のため。って、なんの念だ。

 

11月28日(月曜) 深夜

 本日の自転車のベル。

 ベルが取れてしまったので、ガムテープで固定したのだろう。

 気持ちはよく分かる。とくに布テープは丈夫なので重宝する。実際ぼくも、壊れたボールペンを布テープで補修してずっと使っていたりする。

 ただ、この自転車の場合、テープで固定してしまうとベルが鳴らなくなるのが唯一の欠点である(やはり不便なようで、よく見ると新しいベルをちゃんと装着しておられる)。

 ま、ベルが鳴る鳴らないなど、ベルが取れてしまったことに比べりゃ些細な問題なのかもしれませんが。

 取れたものは付け直す。理屈なんていらないのだ。

 

11月27日(日曜) 深夜

 いま履いている靴の底がずいぶん擦り減ってきたので、新しい靴を買った。

 考えてみると、靴の底は履けば必ず擦り減るものである。そして靴は、国民の老若男女ほぼ全員が履いている。合計すると結構すごい量の靴底が擦り減っているはずだが、それは一体どこに消えているんだろう。

 仮に一年間で50gの靴底が擦り減るとして(なんの根拠もないので悪しからず)。これが一億人分だと、年間5000kgもの靴底がこの世から消えている計算になる。すべてを一箇所に集めてたら、どんな光景になるんだろう。

 …などと夢想しながら、「オレって詩人だよなあ」と悦に入っていた日曜日なのでありますが。

 夢想っつったって、よく考えたら、擦り減った靴の底である。なにが詩人だ、阿呆かと数時間前の自分に言いたい。

−−−

 そして、本日のカーです。

 黄色の新型フォルクスワーゲン(通称オムレツ)がダブった瞬間。

 こういう「みんなとはちょっと違うんだゼ」という車どうしがダブると、周囲まで巻き込むくらいの気まずさになりますな。

−−−

 ちなみにぼくも先日、気に入ってよく着ている紺色のコートが、街中でカブってしまった。デパートで買い物していたら、メーカーも色もまったく同じコートを着た男性が向こうから歩いてきたんである。

 気まずさでうつむきながらも、相手をちらっとチェックしたところ。

 ぼくよりずっとお洒落でカッコよかったので、嬉しいような悔しいような、なんとも複雑な気持ちになりました。

 向こうはぼくを見て、「このコート着るのもうやめよう」と思ったかもしれませんが。ざまみろ。

 

11月26日(土曜) 深夜

 注釈(※注1)の多い文章をたまに見かける(※注2)

 情報量が多くなるのはいいのだが(※注3)、そのつど脚注を参照しなくてはいけない(※注4)。読みすすむリズム(※注5)が妨げられるので、注釈の多い文章は苦手(※注6)である。

 しかし中には、注釈の多い本(※注7)のほうが好きだという人もいる(※8)。彼らはきっと、二つ以上のことを同時進行でこなす(※注9)のが得意なのだろうなと思う。本文と注釈を行き来ししつつ(※注10)読み進むのが、まったく苦にならないのだろう(※注11)

 個人的には、世の中の文章(※注12)から注釈がなくなる(※注13)ことを願うばかり(※注14)である(※注15)
 

(※注1)料理の薬味という意味もあるが、ここでは本文の途中における注のことを指す。こうすることによって、本文の中で十分に解説できなかった情報を補足する。要するに今のこのような文章のことである。
(※注2)たまにと書いたが、学術書や専門書、もしくはマイナーな情報
(※注注1)に関する著書では出現率がぐっと高くなる印象である。生物学に関する本なのに「哺乳類」という言葉に注釈がついていて、何かと思えば「胎生で肺呼吸する動物。メスは乳を分泌して子を育てる」などと書かれて死にそうになったこともある。
(※注3)文字数は確実に多くなるが、情報量がそれに比例するかどうかはまた別の話である。注釈など要らないと思えるものもしばしば存在する。この注釈などがその例である。
(※注4)べつに参照しなくてもいいのだが、せっかく印刷してあるのだから勿体ないと思って読んでしまうのが常である。読むのをサボって、後から注釈だけをまとめ読みすることもあるが、案の序さっぱり訳が分からない。
(※注5)よく考えると読むリズムなどないような気もするが
(※注注2)、このように書くほうが通りがよさそうなのであえてこのように書かせていただく。読み飛ばしていただいて大いに結構である。
(※注6)毒を含んだ苦い手という意味もあり、昔はこれが病気を治すと言われた
(※注注3)。しかし注釈の多い文章が病気を治すとは思えないので、ここでの「苦手」は当然のことながら、不得意・不得手の意味である。
(※注7)どの程度をもって「多い」とするかは意見の分かれるところだが、個人的には、2ページに1つ以上の注釈があると多いなあと感じる。
(※注8)こういう人は、同じ値段でたくさん情報があるから得だと考えているのだろう。タダなら病気でももらうタイプの人だと言えよう。
(※注9)いわゆるマルチタスク(※注注4)。たとえば本を読みながらダンスをすると同時に、オナニーも行うといった具合である。
(※注10)彼らが本当に本文と脚注を行き来しているかどうか疑問ではあるが。どちらも理解していない可能性が高い。
(※注11)これについても本当に苦になっていないかは疑問である。苦なのが好きという、マゾヒスティックな異常性格かもしれない。
(※注12)英語やスワヒリ語などに関しては、読む機会がないので、どんどん注釈をつけていただいて構わない。我ながら寛容である。
(※注13)注釈がなくなったからといって、難解な事柄について何の説明もせず、「○○の本を参照のこと」などとするのは勿論ダメである。
(※注14)「〜ことを願うばかり」と書いたが、私はべつに注釈のことばかり願っているわけではない。結婚とかもしたいので、誤解のないようお願いしたい。
(※注15)たいしたことも書いていないのに「〜である」などとエラソウな物言いなのが恥ずかしいが、なんとなくこうなってしまっただけである
(※注注5)


(※注注1)たとえば特定ジャンルの音楽情報や、マンホールに関する情報などのことを指す。
(※注注2)ただし自分のペースで読み進めている実感はある。だったら初めから「ペース」と書いておけばよかった。
(※注注3)井原西鶴の「好色一代女」が出典とされる。広辞苑を引いたらたまたま載っていただけの情報。
(※注注4)最近になって覚えたばかりの言葉で嬉しいので使ってみた(※注注注1)
(※注注5)自分でも言い訳がましくてイヤである。…と、書いてるのも言い訳がましくて見苦しい。

(※注注注1)わざわざ注釈で書くようなことではなかったかもしれない。…でも、これだけ字が小さくなったら誰も読まないからまあいいか。

 

11月25日(金曜) 深夜

 本日の自販機周辺。

 カルピスってやっぱり「特別なもの」なんでしょうかねえ。

−−−

 全然関係ないが、自宅で食事するときにランチョンマットを用いている。

 このことを知人に話すと意外な顔をされた。「おまえがそんな律儀なコトしてるとは!」と。

 しかしマットを敷かないほうが面倒だろう。どうしても醤油やスープが飛んで食卓が汚れるので、そのたびに拭かなくちゃならない。こんなこと面倒でやってられない。だったら、あらかじめマットを敷いておき、汚れがひどくなったら洗う方式にしたほうがずっと効率的ではないか。

 …と、このように反論したわけですが。

 どうやらランチョンマットって、食事のたびに交換する代物であるらしく。十日に一度くらいしか換えないぼくのようなスタイルは、ランチョンマットではなく、「雑巾を敷いている」ようなものであるらしく。そうだったのか!!

 今後は余計なことは口にせず、ただ「ランチョンマットを使ってるよ」とだけ言っていこうと思います。

 

11月24日(木曜) 深夜

 ボジョレヌーボの季節ですか。

 なんでも今年は百年に一度だかの当たり年らしいが、去年も一昨年も似たようなことが言われていた気がする。ここ数十年で稀にみる出来だとか、百年に何度かしかない当たり年だとか。

 来年も「百年に一度の出来」だったら、それは百年に一度じゃないだろうと思うが、それはさておき。

 上出来具合の表現がこうもインフレすると、心配なのは今後である。

 こうなると次年度からは落ちるしかない。

 あと思うのが、だったら今までのボジョレは一体なんだったのだということ。つまるところ凡作だったのだろうけれど、こういった表現は一向に見聞きしない。しかし、良作のときにそれを謳うんであれば、駄作のときも正直に告知すべきだろう。

 …でもボジョレって、飲んだところで毎年、「そこそこ美味しいね」という感想しかない。前年度の味なんて覚えてやしないからである。

 

11月23日(水曜) 深夜

 本日の私有地です。

 「立ち入り禁止」ではなく「ご用心下さい」。一瞬なんのことかと思ったが、よくよく考えると恐ろしい掲示である。

 言われてみれば確かに、私有地だったら何をしようが持ち主の勝手である。爆発物を設置したりするのは法律的にダメだろうけれど、撒きビシをまいたり、カビキラーを吹き付けたり、ウンコを撒いたり、落とし穴を作ったりするのは自由なのだ。

 「立ち入るのはいいけど、どうなっても知らないからね」

 この私有地にうっかり足を踏み入れた日には、撒きビシに足をやられ、あわてて飛びのいたら落とし穴にはまり、ウンコまみれになったかと思えば上空からカビキラーやら石灰やらが滝のように降り注いでくるかもしれない。うわあ、もうダメだ!!

 …あ、でも、十分に用心したらいいのか。今度入ってみよう。

 ぼくは君子じゃないので、危うきに近づいてもいいということで。

−−−

 ちなみに今、「クンニ危うきに近寄らず」というのをふと思いついたんですが。

 ネットで検索してみたら何百件もヒットして、ああやっぱりな、と落ち込んだ勤労感謝の日でありました。

 

11月21日(月曜) 深夜

 本格的に寒くなってきたので、とっくりのニットを出した。

 でも着てみたら、首のまわりがチクチクするのが気になって気になって。とても出勤どころではないので断念し、シャツを重ね着することになってしまった。思えば毎年、冬場になると同じことを繰り返している。とっくりのニットに慣れるのが大変なのだ。

 出社してみたら同僚の一人がとっくりルックだったので、「首がチクチクするの、気になりません?」と訊いてみたら、「…そんなこと言われたら気になってきたじゃないか!!」と大層怒られてしまった。ふふふ。この嬉しさはなんだろう。

 皆さまも、とっくりニットの首のチクチク、気になりませんか? これで気になってくださる人が増えることを期待しつつ。

 我ながら性格悪いですねえ。

−−−

 寒いといえば、今ぼくの住んでいるアパートもがまた寒い。

 立地が吹きさらしであるうえ、暖房器具が貧弱なのだ(効きの悪いエアコンとショボい電気ストーブのみ)。

 去年の冬、友人数人とウチで飲んでいたときも、あまりの寒さに皆が音を上げはじめた。酒を飲んでいるにもかかわらず、である。

 「ああ…寒い」
 「ほんとだ。オレ、コート着るわ」
 「ほかに何か暖房ないの!?」
 「調理場のガスコンロも焚こうよ…」

 そのうち、参加者の一人がいいことを発見した。冷蔵庫の近くに寄ると少し暖かいというのだ。言われるまま冷蔵庫にもたれかかってみると、そこには確かに、ほんのりとしたぬくもりがあった。ああ冷蔵庫、ああ我がおふくろ。

 …というわけで、みんなで冷蔵庫を囲みながら飲食した一夜なのでありました。「なんかオレたち、ゴキブリみたいやね」と嫌味なども言われつつ。

 冷蔵庫 我が家にあらば 暖となる。

 

11月20日(日曜) 深夜

 本日も撮った写真を何枚か。

ダイソーで見かけた魚焼き器。

これが100円とは確かかに安いと思うけれど、どうして語尾に「〜でR!」を付けようと思ったのか? いったい何を狙っているのか?

ダイソーといえば「ザ・○○」ではなかったか。それとも今後は、あらゆる品物に「〜でR!」を付ける目論見か。

電池でR! ランチョンマットでR!

 

無印良品で見かけた観葉植物。

同じような植物が100円ショップで売られているが、ここでは何倍もの値段がする。よく見れば893円。ヤクザである。

なんだか、無印の商品が本当にヤクザな値段に思えてきますな。本当は100円ショップが安すぎるんだけど。

 

そして世の中にはこんな店も。

有限会社なのに「世界屋」というネーミングが素晴らしいです。世界は有限なのだという哲学的な思想が込められている…可能性はまずないでしょう。

そういや株式会社の「宇宙企画」もすごいネーミングである。アダルトビデオ作ってるのに宇宙スケール。

 −−−

 あと、昨日の日記を読んでくださった方が、「私も見ました!」と下のような写真を送ってくださいました。

 目撃地域は京都・岩倉とのこと。ぼくがこの車をみたのは京都・桃山であるから、10キロ近く離れていることになる。おお、すごい!!

 …とちょっと興奮していたんですが、考えてみたら車だから動くのは当たり前ですね。

 

11月19日(土曜) 深夜

  自転車で移動していたときに撮った写真を数点。

思わず気が抜ける焼き鳥屋。こんな鶏はいやだし、こんな相撲取りもいやだ。
あと「自分で焼く鶏の旨さ」というのもまた。もう少しプロとしての自尊心を持ってほしいものです。

 

ラリーカーかと思えばさにあらず。貼ってあるのは観光地のステッカーとか、神社のお守りとか。こんなのが前を走ってたら、思わずよそ見して追突してしまいそうです。
中古車店に売りに行くときも、きっと恥ずかしい。そして、こんな中古車だけは買いたくない。

 

傘立てに「使用中」の貼り紙が。でも傘は一本も入っていない。石原さんが一体なにに使っているのか、皆目分かりません。
ぼくもこれに見習って、街角のゴミ箱に「使用中」と張っておこうか。あ、でも使用中だったら、普通にゴミを捨てていいってことか。

 

 実は仕事がらみの用事があって自転車で移動していたのだが、こんな写真ばかり撮っていたせいで遅刻してしまいました。

 写真の物件たちよりも、ぼくのほうが余程どうかしてるかもしれません。

 

11月18日(金曜) 深夜

 同僚の若手男性社員Aさんは、何かにつけて相手を問い詰める癖がある。

 「○○っていうのはどうしてなんですか!?」
 「そういう風に言える論拠はあるんですか!?」

 些細な事柄についてもいちいちこの調子なので、Aさんは他の社員の大半から敬遠されている。

 これではいけないと判断したのか、本日、直属の上司がAさんを呼んで話し合いの場を持った。

 「Aさん、君はちょっと相手を問い詰めすぎてるんじゃないかね」

 するとAさんはすかさず答えたのでした。

 「ぼ、僕のどこが問い詰めすぎなんですか!? そうおっしゃる具体的な例を挙げてください!!」

 上司は「…だからそういうところだよ」とボソッとつぶやいておられました。ぼくも同感です。

 

11月17日(木曜) 夜

 またガンダム見て。阿呆。

 ところで作品中、ガンダムの運転手であるアムロさんが夜更かししていて上司から注意されるシーンがある。

 「いつまで起きてるんだ。寝るのもパイロットの仕事だぞ」

 確かにそうかもしれないけど、こう考えると、どんなこともパイロットの仕事である。

 「まだ飯を食ってないのか。飯もパイロットの仕事だぞ」
 「もうトイレは済ませたか? トイレもパイロットの仕事だぞ」
 「はやくパンツをはけ。パンツもパイロットの仕事だぞ」

 いや、パイロットだけではない。この法則は、あらゆる職業に当てはまる。

 「うんこをしておけよ。うんこも営業の仕事だぞ」

 過去に見た作品をしばらく経ってから再び見ると、自分自身の成長が実感できてためになると言われますけれど。

 今回は成長を実感というより、どうしてこんな風になってしまったんだろうなァと。ただただ残念です。

−−−

 さて本日、Go smoking に書いている連載コラムが更新されてます。

 今回のテーマは「キセル煙草を吸ってみた」。 読んで字のごとく、単にキセル煙草を吸ってみただけという非常にシンプルなレポートです。ちょっと「粋」かなと思って吸ってみたものの、結果的にはみっともなくなっただけでした。

 よければご覧くださいませ。

 

11月16日(水曜) 深夜

 ウソをつくと言動がぎこちなくなるからバレる、という人がいる。

 でも、ぼくはウソを結構うまくつける。

 いつもぎこちないから。

−−−

 たまには昔を懐かしもうと思い立ち、初代ガンダムをレンタルしてきて見ております。

 そういや小学生の当時、親が厳しかったのであまりテレビを見させてもらえなかった。一方でマンガ本は全然OKだったのがよく分からないが、親にとってはマンガは「書籍」だったのかもしれない。ともかくまァ、そういうわけでテレビに関してはかなり厳しく制限されていたわけですが。

 ガンダムだけはどうしても見たかったので、必死になって親に交渉した。その甲斐あって、一つの交換条件のもとに視聴が許可されたのだった。

 「いつも嫌がって食べない大根の煮物をちゃんと食べた日はガンダムを見てもいい」

 以降、ガンダムが放映される日は毎週、大根の煮物が食卓に並んだ。ぼくは歯を食いしばって大根を飲み込んだ。

 …という経緯があるせいで、ガンダムを見ると反射的に大根の煮物が頭に浮かんでしまうんである。いくらモビルスーツが激戦を繰り広げていても、頭の中には輪切りにされた大根の映像。そしてモビルアーマーの登場と同時に、口の中によみがえる大根のあの食感。

 妙な条件付けをしてくれた親をうらむばかりです。

 

11月15日(火曜) 深夜

 電車の中で携帯電話が鳴ってる人がいた。

 どうするんだろうと思って見ていたら、その人は席を立って、その場所で通話しはじめた。

 ちょっと申し訳ないときって、とりあえず立つと罪悪感が減るみたいです。

−−−

 その後、ぼくは電車を降りて駅構内を歩いておったわけですが。

 そしたら前方から、見覚えのある気がする人が歩いてきた。ん、もしかして知り合いかも? 

 …と思ったのだが、お互い反対方向に歩いている状態で、その間に大きな支柱が立っていて。わざわざ立ち止まるのも面倒なので、そのまま歩きながら確かめようとしたのが間違いだった。

「あ、知り合いかも?」
 
「あー、支柱が死角で見えないや」
「でも立ち止まるのも面倒だし…」
 
「ああー、永遠に見えない!!」
 

 こういうのって、ちょっとしたことなんだけど妙に腹が立って、でも誰に腹を立てたらいいのか分からなくて、ますます腹が立ってきて。

 ものぐさが精神衛生にここまで悪いことに愕然としています。

 

11月14日(月曜) 深夜

 職場で仕事していたら、同僚Yさんから尋ねられた。

 「ええと、明日って何曜日だっけ!?」

 …こういうときって普通、今日は何曜日って訊くんじゃないでしょうかねえ。なんて素直なんだ、Aさん。

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 さて、本日の細かいケチです。

 「此処」は漢字で書けるのに、「駐車」を間違えるのがよく分かりません。

 かなり年季の入った紙なので、何年も貼ってあるものと思われるが、間違った字のまま「〜置くな」とエラソウなのも可愛らしい。

 この貼り紙がなんだか可哀相なせいか、前には一台も駐車されてませんでした。

 ぼくも困ったときは、こういうやりかたで切り抜けよう。

 

11月13日(日曜) 夜

 他人の夢の話ほどつまらないものはない、と言われますが。

 昨日こんな夢をみた。

競馬場に行って馬券を一枚買ったのだが、間違えて「騎手として出場する券」を購入してしまう。

案の定、係員から「本日のレースに出てください」と言われるのだが、馬に乗るのなんて真っ平なので、しらばっくれてそのまま実家に帰る。

しばらくしたら玄関のチャイムが鳴る。まさかと思って窓越しにのぞいてみたら、競馬場の係員が馬を連れてウチに来ているではないか。

「競馬場の人と馬が来てはるよー」とぼくを呼ぶ玄関先の母。

「いま留守にしてるってことにしといてよ!」と母に頼むぼく。しかし競馬場の係員、「そこにいるのは分かってるんや! レースに出てもらわんと困るんや!!」と大きな声で。

馬なんて乗ったこともないし、落馬して首の骨とか折ったら死んでしまうかもしれない。うわー、どうするよ!?

脂汗を流しながらオロオロしているところで目が覚めた。

 …こんなしょうもない夢でウンウンうなされている自分が心底情けない。

−−−

 ちなみに、フロイトの夢解釈辞典で「騎手として出場する馬券を間違って買ってしまう夢」の項目をひいてみたところ、「抑圧された性欲と結婚願望の現われ」とのことでした。

 もちろんウソです。

 こういう夢の話をして、「馬は女性の象徴であり、その上に乗ることへの無意識的な不安が夢に現れているんでしょう」とか言われたら、脱力死してしまいそうですな。

 

11月11日(金曜) 深夜

 ひょっとしたら、こんなこと常識なのかもしれませんが。

 ビルのトイレの水道なんかで時折見かける「上吐水」という表記が、ずっと気になっていた。

 どういう意味なのかさっぱり分からない。一体どんな水なのか!?

 「吐水」と聞くとなにやら不潔な気がするし、「下吐水」なら絶対に使うまいと思うのだが、その前に「上」が付いているから余計に混乱する。これは「いい水」なのか「悪い水」なのか?

 ちなみに個人的には、「上吐水」は産業用水みたいなもので、不潔ではないけれど飲用には適さない水なのかなァ、くらいに思っていた。だから、この水で手を洗った後は、なんとなく気になって、ガムとか食べるときには直接手を触れないように心がけたりしておったわけですが。

 さっきネットで調べてみたら(なんでも調べられるからネットは便利ですねえ)、「上吐水」は「蛇口のレバーを上にあげると水が出ますよ」という意味なのだった。ああ、なあーんだァ!! 今までの苦労はなんだったのだ!? 

 こんなしょうもないことに、「吐」なんて意味深な言葉を使うなと言いたい。

 …冷静に考えると、「吐」という言葉に過剰な先入観を持っていたぼくのほうが悪いのかもしれませんが。飲み会のたびに吐いてトイレを汚しているせいなのかもしれませんが。

 なんだか悔しいので、今後チビッコから「上吐水ってどういうこと?」と訊かれたら、「パンティーストッキングのことだよ」と嘘を教えることにしよう。

 

11月10日(木曜) 夜

 本日のフォントです(下の所在地欄にご注目)。

 近所の駅ホームにある看板なのだが、ここ数年ずっとこの状態。なんですかこれは!?

 注目を集めるという意味では成功している広告かもしれませんが。

−−−

 最近よく風邪をひくので、手洗いとうがいを心がけている。

 ただ、うがいについては、普通にやってもほとんど効果はないと聞いた。口に入れた水を喉の奥の奥まで落とした状態でブクブクしないといけないらしいのだ。ううむ、難しそうだが、風邪の予防のためにはがんばらなくてはいけない。

 …というわけで、水を口に含んで喉の奥の奥まで落とすようにしているわけですが。

 食道にまで水が達すると嚥下反射が起こるせいか、ついそのまま飲み込んでしまうのだ。これではいけないと再挑戦するが、またもやゴックンと飲み込んでしまう。そうこうしているうちに、コップの水をほとんど飲み干している体たらく。

 これで風邪が予防できたら自分でもビックリである。

 おかげで本日も風邪気味なので早めに寝ます。おやすみなさいませ。

 

11月9日(水曜) 深夜

 もう言い尽くされている感もあるので、今さらどうよとも思うんですが。

 世の中、「プチ」が氾濫しておりますねえ。プチ整形にプチ家出、プチうつ病、プチ断食、etc, etc...。

 どれもこれも何となく可愛らしい印象を受けるけれど、逆に言えば、どんな事柄であっても「プチ」さえ付けときゃ大丈夫、てなことになってしまう。

 いやまァ、否定的なスティグマを持つ言葉に「プチ」を冠することは、その対象を「肯定的」かつ「深刻でないもの」に相対化するメリットがあるのかもしれない。しかしそれを差し引いても、あまりに安直な「プチ」は、対象の本質を骨抜きにしてしまうのではないか。

  …とか言ってる小生の日記も、「プチ日記」などというたわけた名称なんでありますが。

 プチ日記の「プチ」の由来は、学生時代、いい歳こいて街頭でフォークソングとか歌ってる輩を仲間うちで「プチ長渕」と蔑称していたことから。日記のバッタもん、くらいのつもりで命名したというのが正直なところでありまして。

 近年の「プチ」ブームに乗じてると思われるのが悔しくて書いてみました。プチええかっこしい。

 ああ、プチプチプチプチ、うっとうしい文章ですな。

 

11月8日(火曜) 深夜

 誰に頼まれてるわけでもないのに、こうして日記を書いている。かれこれ6年以上になる。

 ただ、書き始めた当初と現在とを比べると、ふと思う。

 当時は「ちょっと面白いことを書きたいなあ」という気持ちばかり空回りしていたけれど、近頃は空回りしなくなってきたなァと。

 そもそも少しも回ってないからである。これでは空回りのしようもない。

 肝機能の数値にちょっと似ているかもしれない。

 「GOT」や「GPT」といった肝機能の検査値は、高ければ高いほど、肝臓が悪くなっていることを示すらしい。肝臓に無理がかかると、ダメージを受けた肝細胞から酵素が流出する結果、数値が上昇するのだという。

 だから数値が上がると、肝炎を疑われたり、酒の飲みすぎを注意されたりする。

 だが肝硬変なんかが進行すると、今度は逆に、数値がぐんぐん下がってくるのだと。おっしゃ!!

 いや、もちろん健康になっているわけではない。肝細胞そのものが死滅しているので、ダメージの指標となる酵素さえも流出しなくなってしまうのだ。例えるなら、ぼこぼこにリンチされて悲鳴をあげていた人が、しまいに瀕死状態となり、ついには悲鳴さえも出なくなってしまうようなものだろうか。

 名づけて肝硬変日記。…本当はせめて、悪あがきの酵素くらいは出したいんですけどねえ。なんともかんとも。

 

11月7日(月曜) 深夜

 持病のアトピーの薬をもらうため、いつもかかってる医院に行ってきた。

 

 医者は一人なのに「梅林堂医院」と「若林医院」という二つの名前がある、今ひとつよく分からないところである。

 診療科目が「皮膚科」と「泌尿器科」の二つという、これまたよく分からない医院なのだが、これが理由なんだろうか。皮膚科を診るときは若林医院で、泌尿器科を診るときは梅林堂医院とか。

 泌尿器科で梅林(ばいりん)とは、正に「名は体をあらわす」ですな。

−−−

 医院では現在、普通のステロイドを5倍に薄めた調合薬を処方してもらっている。

 この薬を週に2回ほど塗れば問題なく過ごせるのでいいのだが、受診するたびに医者から言われる。

 「これだけ薄い薬で大丈夫なんだったら、ステロイドなしの保湿薬でいけるんじゃない?」

 それで以前、保湿薬も出してもらったものの、これだけだとかゆくなってくる。今の処方でちょうどいいんである。

 …と反論すると医者いわく、「じゃあ毎日ちゃんと保湿薬を塗って、それでもかゆくなったらステロイドにするように」。

 こう言われたら反論できない。ただ、保湿薬は皮膚はベタつくのがイヤで塗っていない。だから診察のたびに緊張する。

 医者:「今日はどういうことで?」
 ぼく:「薄めたステロイドがなくなったので…」
 医者:「えーと、5倍希釈の軟膏やね。ま、これなら副作用もほとんどないからいいでしょう。同じの出しとくね」
 ぼく:「ありがとうございます」
 医者:「ところで保湿薬も塗ってる?」
 ぼく:「も、もちろんです!」
 医者:「保湿薬はまだある? 新しいの出さなくて大丈夫?」
 ぼく:「ええ、まだあります」

 保湿薬を処方されてから2年近く経つが、使わない薬のためにお金を払うのももったいので、毎回これの繰り返しである。

 いつの日か、ぜんぜん塗っていないことがバレて怒られるんじゃないかと、戦々恐々の思いであります。

 「保湿薬も塗ってる?」
 「もちろんです!」
 「保湿薬はまだある? 新しいの出さなくて大丈夫?」
 「ええ、大丈夫です」
 「…あれ? 最初に処方してからもう5年も経ってるよね。ホントに塗ってたの!?」

 このような展開になった日には、「あっ!」「そういえば、ずっと前から無くなってました!!」と、大げさに気がつくフリをする所存です。

 

11月6日(日曜) 深夜

 知人と喋っていたら、なぜかドラクエの話になった。

 ぼく:「中学生の頃、縦笛でドラクエの音楽とか吹いたよなあ」
 相手:「うん、吹いた吹いた。オープニングの曲とか」
 ぼく:「♪ ラーララ、ラララ、ララララ ララララ〜」
 相手:「そうそう、懐かしいなァ!」
 ぼく:「ところでオレ、ドラクエのオーケストラ曲のCDも持ってた」
 相手:「オーケストラって、どんな感じなん?」
 ぼく:「♪ ワーワワ、ワワワ、ワワワワ、ワワワワ〜」
 相手:「全然分からへんわ!!」

 …いろんな楽器があわさったオーケストラの音を、自分の声だけで再現しようと思ったのが間違いでした。

 ただ単に、発音が「ラ」から「ワ」になっただけである。 ソロ・オーケストラ。

−−−

 人間ひとりの声だと、単純な和音でさえ発音できないはずなんですけれども。

 自分では、どんな音も発声できるような気になるのがおかしい。たとえば「ド+ミ+ソ」の和音なら、「ウォーン」とか言っている自分がいる。でも冷静になってみると、「ソ」の音階で「ウォーン」と言ってるだけだったりする。

 音痴な人ほど、自分の声の限界について無自覚なのかもしれませんな。我ながらそう思う。

 

11月5日(土曜) 深夜

 あまりにも典型的な休日を過ごしたので、記念に書き残しておこう。

  書きたくないことは書いてません。なにが記念だ。

−−−

 近所を歩いていたら、こんな風景に出くわした。

 ほう、柿ですか。そういや秋といえば、柿の季節でしたねえ。

 …と、何気なく通り過ぎようとしたのだが、なにか引っかかるところあって。立ち止まって、近くで見てみたところ。

 

 イミテーションの柿の実だった。ウソ柿。枝や葉の色も微妙に違うのがお分かりだろうか。

 いやまァ、自宅の軒先に季節感を演出したかったんだろうとは思う。でも柿って、ここまでして装飾・顕示するようなものなんだろうか。桜の花とかなら分かる気もするけれど、なにしろ柿である。家主の意図がよく分からず、ただただ混乱するばかり。

 地味なものだけに、疑ってもいなかったものが実はニセモノだったという妙なガッカリ感。

 「鳴かぬなら、鳴き声の録音を流そう、ほととぎす」

 …ぼくが柿の木だったら、ウソの実をぶらさげられるのも悪くないような気がしてきました。

 というか、ずっとこういう人生を歩んでいるような気がします。ウソの実のくせして柿だし。

 

11月4日(金曜) 深夜

 環境にやさしくて資源も浪費しないという、ハイブリッドカーの開発が花盛りのようで。

 さっきもテレビを見ていたら、新製品を完成させたメーカーの人が得意げな顔でインタビューに答えたりしていた。

 ただ、多くの人が指摘しているように、現在のハイブリッドカーというのは技術的にはまだまだ発展途上のものなのだろう。そもそも、ガソリンを併用しなくちゃいけないという時点で、素人目にも中途半端さ満点である(低コストで実用化させた苦労には頭が下がるけれど)。

 で、これまた多くの人が指摘していることだけど、ハイブリッドカーを踏み台として、さらに低公害・低消費のエコカーが開発されていくのだろう。ソーラーカーの技術も日進月歩のようであるし、水素エネルギーを用いた燃料電池が注目されているのもご周知の通りである。

 メーカーの人たちは次のように口を揃える。

 「ハイブリッドカーという過渡期を経て、本当の意味で地球に優しいエコカーの開発につながるのです」
 「地球にダメージを与えることなく車で移動できる技術、それが我々人類の幸福にもたらすのです」

 その一方でふと思う。

 もし仮に、このまま順調に科学技術が進歩して、ほとんど燃料を消費することなく高速移動できるようになったとして。そうしたら本当に人類は幸福になるんだろうか? 全国各地を瞬時にして、しかも地球に優しく移動できるようになったら、我々は幸福になるんだろうか?

 こうなったら確かに大歓迎ではあるけれど、我々はきっと、その状況にすぐ「慣れて」しまう。人類の順応能力は、良くも悪くも優れているのだ。

 それに、未来に生まれてくる子ども達にとっては、こういった科学技術は「あって当たり前」のものだろう。…となるときっと、ハイテク・エコカーで移動しながらも、「アイツのほうが高級な車に乗ってる」「アイツのほうが女にモテる」「なんかやる気が出ない」等々、今の世と変わらぬ世俗的な悩みで頭がいっぱいになっているだろうことは想像に易い。

 人間の幸福は「生活水準がどこまで到達しているか」ではなく、「自分の生活水準にどれだけ進歩を感じられるか」に規定されるのかもしれませんな。我々の遺伝子は、進歩に快楽を感じるようにプログラムされているはずなのだから(神経を直接刺激するような麻薬薬物は別として。こんな物質の登場は遺伝子の想定外である)。

 ハイブリッドカーに乗っている人よりも、原始時代に石器の作り方を発見して大興奮していた人のほうが、ずっと幸福だったに違いありません。

 …おそろしく当たり前のことを書いてる気もしますが、今回の文章もぼくの中では「進歩」なのでいいのです。

 

11月3日(木曜) 深夜

 一日空いてるのでゲームでもするかと思い立ち。

 プレステ2の「もじぴったん」を買ったら、8時間もやってしまった。ああ、文化の日。

 …というわけで、本日の電池です。

 なにがどう「都会派」なのかさっぱり分からないのはさておき、「都会派」という言葉の破壊力を知らしめらますな。

 バーバリーのショップなんかでも、各アイテムに「都会派のシャツ」「シティー派のあなたに!」てなタグを付けたらいいと思います。

−−−

 さて本日、Go smoking に書かせてもらってるコラムが更新されてます。

 今回のテーマは「タバコと豚肉が共存できない理由」。なにやら格好つけたタイトルですが、「喫煙者 vs 嫌煙派」という構図ってそもそもどうなんだろう、という素朴な疑問について愚考してみただけです。

 よければご覧くださいませ。

 

11月1日(火曜) 深夜

 本日の水切りネット。

 パッケージに印刷されている写真がもう、気になって気になって。

 排水口のカゴを食卓の上に置くとはこれ、一体どういうつもりなのか? いよいよ気でも狂ったか!?

 おまけによく見れば、排水溝の下部が黒ずんでいるし(本物の使いさしを用いているようだ)、そこにレモンがくっつけてるし。ああもう、汚いがなっ! お母さんに見つかったら怒られるやんけ!! うわあー。

 …コホン。

 いやまァ、汚いイメージのある排水口を、少しでも爽やかに見せようという算段なのだろう。しかし、だからといって排水カゴの横に果物や野菜を並べるというのはちょっと安直すぎやしないか。

 だったら便器タワシの広告写真なんかも、タワシの傍らに切りたてのメロンでもあしらっておけばいいのか?

 安直さも度を過ぎると、前衛芸術になってしまうという一例でした。排水カゴとフレッシュレモンが食卓の上で出会ったような。

 


 

   2005年 10月のプチ日記 

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