2009年3月のプチ日記

3月31日(火曜) 深夜

 ウチの職場のパソコンには、「パソコン」というラベルが貼られています。

 パソコンであることが一目瞭然なので非常に便利だ! と、同僚たちからも大好評をいただいておる次第でして。

 この上昇気流に乗じて、机には「机」、引き出しには「引き出し」というラベルを貼っていく方向で企画書を通していきたいと思います。

 会議室の椅子には「寝床」とラベルを貼るという、お約束の感じも当然のことながら。

 

3月30日(月曜) 夜

 週末、職場の送別会で飲みに行ってきた。

 一軒目の店を追い出された後、いい店が見つからなかったので、仕方なくチェーン居酒屋の「酔心」に入ったわけですが。

 注文した「白魚と春野菜の揚げもの」がテーブルに届いた瞬間、一同からどよめきが湧き起こった。チェーン店での1,000円という価格に対して、そのボリュームがあまりにも上品だったからである。

白魚と春野菜の揚げもの(1,000円)

届いた現物のあまりにも上品なボリューム

 この春で退職する人たちを惜しむ雰囲気の中、それまではどちらかというとシンミリしていたのだけれど、この一品が届いてからは全員が一挙にヒートアップし、「なんて上品なんだ!」「素晴らし過ぎるじゃないかっ!」「ファック!!」等々と大声で叫びあうこと数十分。そのまま勢いで二次会はお開きとなったのでありました。

 長い間お世話になってきた人たちの送別会なのに、最後は「白魚と春野菜の揚げもの」のボリュームについて叫びながら〆(シメ)となる。

 世の中というのは、なかなか予想できなくて面白いなと思います。…あ、Mさん、Yさん、今までありがとうございました。

 

3月27日(金曜) 深夜

 ぼくの実家では子どもの頃、「家でおしっこをした後はトイレの水を流さない」というルールがあった。

 母親が極度の倹約症だったため、おしっこごときに水を流すのはもったいない、うんこをしたときに流せば充分だというお触れが出されていたのだ。子どもは素直だから、ふーん、そういうものなのかと当たり前のように思っていた。

 そんなある日、みんなで同級生の家に遊びに行ったとき、ぼくがトイレを借りたあと流していないことに気づいた友人から「ションベン流さへんなんて信じられん!」と言われた。「だって水道がもったいないやんか」と反論したものの、その場にいた全員が呆気にとられていたから、おしっこを流さない風習はおそらく我が家だけのものだったのだろう。

 それでも我が家では、おしっこの後は水を流さない日々が続いていたのだけれど。数年たったとき突然、母親が耳を疑うようなことを言い出した。

 「今後、トイレでおしっこしたらちゃんと流して!」

 何事かと思えば、おしっこを流さずそのままにしていると便器が黄ばむ。それを漂白しようとすると洗剤代がかさむ。だったら毎回、流したほうが経済的だというのである。

 やったー。ついに我が家でも、おしっこのあと堂々と水を流せるようになったのだ!!

 …と、子どもながらに抱いたブルジョワジーの予感は、直後、母親の言葉によって見事に打ち砕かれた。

 「おしっこの度に水洗使うのはもったいないさかい、お風呂の残り湯をバケツに汲んで流すんやで!」

 実家に帰ると今でも、おしっこする度に風呂場まで残り湯を汲みに行っている母の姿があって、思わず涙を誘われます。

 

3月26日(木曜) 深夜

 ひとつの例えとして、ですが。

 最近どんなことにおいても、「データ主義」が幅を利かしている。エヴィデンスに基づいて判断するのが最善であるし、そうするべきなんだよという考えかたである。しかしここで、次のようなエヴィデンスが出されたらどうするか?

 「データ主義は非効率的なので導入すべきでない、というデータが示された」

 このデータに基づいてデータ主義に別れを告げるとしたら、それは結局、データ主義に基づいていることになる。他方、このデータを信じずにデータ主義を崇拝し続けるとしたら、それは結局、データ主義にそむいていることになる。いずれにしても自己撞着してしまうわけである。

 上述のようなエヴィデンスが出されたらどうしようもないのか?

 そんなことは全然なくて、現実には「エヴィデンスなんて意に介さない」という選択肢もあるし、もっと合理的なところでは「ひとつの知見として参考にする」という選択肢もあるのだった。

 こういう二次元的な思考への囚われって、日常生活の中にも意外と多いんじゃないかなあと。このようなことを考えていた本日。

 

3月25日(水曜) 深夜

 私たちは語呂合わせが大好きである。

 たとえば、ビジネスシーンにおけるコミュニケーションでは「ほうれんそう」が大切だといわれる。これはもちろん野菜のホウレンソウではなく、上司や同僚への「告・絡・談」の頭文字をとったものである。

 調理の基本ルールでは「さしすせそ」が大切だといわれる。これももちろん五十音ではなく、調味料を入れる順序の「糖、油、味」の頭文字をとったものである(実際にはちっとも頭文字になってないけれど)。

 唐突に「ほうれんそう」だの「さしすせそ」だのと決められても、正直なところ「…で?」と思ってしまう。確かにまァ、大切な事柄を感覚的に覚えやすいというメリットは多少あるのかもしれないけれど、それ自体に何の意味もなくインパクトにも欠ける語呂合わせに、果たしてどれだけの効果があるだろう。

 必要なことであれば、このくらいは語呂合わせなど使わなくても覚えられる。最初に思いついた人の「してやったり」な嬉しさに、しかたなく付き合ってあげているような気がしてくるんである。どうして「ほうれんそう」なのか? なぜ「さしすせそ」なのか?

 だったら、もっと覚えやすくてインパクトのある語呂合わせなんて、世の中にいくらでも作れるんじゃないか。

 たとえば、新たなビジネスエリアにおける判断では「オメコ」が大切である。すなわち、「観察(ブザーブ)・記銘(モライズ)・確認(ンファーム」の鉄則を冷静に順守することが要求される。企業戦士は片時もオメコを忘れるべからず。

 野球では常に「フェラチオ」を肝に銘じなければならない。すなわち、「フェアプレイ(正々堂々たる態度)・ンニング(基礎ランニング)・ームプレイ(協調性)・ートノミー(自主性)」を貫き通さなければならない。イチロー選手が実際にフェラチオを重んじていたことは、一部では有名な話である。

 …といった具合に、いくらでも作れてしまう語呂合わせ。どうせならインパクトのあるものをガツンと出回らせてほしいものですな。

 

3月24日(火曜) 深夜

 頭のてっぺんのハゲてる部分を棚にぶつけたら切り傷になってしまった。

 ハゲは危険であることを再確認させられた形である。髪の毛は決してダテではなく、頭部を守るという大きな役割があったのだ。

 これだけ大切なものなのに、どうして30代で薄くなってしまうんだろう。もしかしてこれは「そろそろ死んでもいいんだよ」という天のおぼし召しなのか?

 でも考えてみたら、昔なら30代にはとっくに子どもを作っていたわけである。もしも髪が薄いせいで怪我して死んだとしても、それまでに子どもができていたら、ハゲ遺伝子は後世に受け継がれることになる。ハゲには淘汰圧があまり働かなかったからこそ、こうして多くの人が薄毛に悩んでいるのだ。

 中年期のガンなんかもストレスや食生活等の外的要因を除けば原理は同じで、発症するまでに子どもを作り終えているからこそ、そういった形質が人類に受け継がれ続けているのだろう。若年ガンを本気で少なくしようと思ったら、「40歳になるまでは子作り禁止!」みたいなエゲツナイ法律を世界的に作ればいい(こんな法律が人類の幸福につながるとは到底思えないけれど)。

 現在のところ、幼少期のさまざまな重篤疾患が医学の進歩によって治療可能となっている。これはとても素晴らしいことである反面、自然原則による淘汰圧がそれだけ作用しなくなっているという点で諸刃の剣でもある。「環境や素因のいかんによって適者だけが生存していく」という進化の力が失われつつある今の人類にとって、知識の世代伝承による治療技術の進展は、もはや必要不可欠なものになっていると言ってもいいだろう。

 …というわけで、効果絶大かつ安価な毛生え薬の登場を願う所存なのであります。論理がカンペキにすり替わってますが、論理を貫くと「40歳までにハゲた人は子作り禁止!」となってしまいますから。

 遺伝子うんぬんの優生思想による人類改革がいかに危険で非人道的なものであるか、本稿ではそれが言いたかったのです。…お、いいとこに着地。

 

3月23日(月曜) 深夜

 知人が買ったi-phoneには、おろおぼえの鼻歌から正しい曲名を検索してくれるアプリが入っている。

 これをみんなでやって遊ぶとけっこう楽しい。適当に歌うだけでもかなりの確率でヒットするし、同じ歌でも人によってト検索結果にバラツキがあるのも興味深い。音程とリズムがどれだけ合っているかがポイントになっているようなので、音痴の度合いをある程度測定できるっぽいのだ。

 ヒットする曲の幅広さにも驚かされる。邦楽、洋楽を問わず、ポップスもロックも、ひいてはドラクエのBGMもちゃんとヒットしていた。

 ちなみに、ぼくが長渕剛の「とんぼ」を鼻歌でうたってみたところ、なぜかバングルズの"Eternal Flame"がヒット。くやしいので、もしやと思って"Eternal Flame"を鼻歌でうたってみたら、「とんぼ」ではなく"Eternal Flame"がヒットしたので二重にガッカリしました。

−−−

 学生の頃から気になっていた三条河原町の中華料理屋「ハマムラ」に、構想15年という年月を経た末ようやく入ってみた。


三条河原町の南東にあります
 

チャーシュー麺(600円)

 どんな味なんだろうと大いに期待していたら、本当にどうということのないラーメンだったので大いに満足しました。

 美味しすぎず不味すぎない、ちょうどいい味。また行こうと思います。

 

3月21日(土曜) 深夜

 週末なので、麦焼酎を一瓶(900ml)空けつつあります。

 そういや最近、同僚から酒量についての相談を受けることが多くなってきた。べつにぼくは酒量の専門家でも何でもないのだけれど、なぜか訊いてこられるんである。そして相手の悩みは、だいたい決まって同じである。

 「週末、ワイン2本とか飲んじゃうんだけど、どうしたらいいだろう?」
 「毎日、日本酒2〜3合飲んでるんだけど、どう思う?」

 ぼくの答えもまた、いつも決まって同じである。

 「週末なのにワイン2本で済むなんてスゴイですよね」
 「どうやったら毎日、2〜3合でおさえられるんですか?」

 すると先方は、「なんか心がスッキリしたわ」「ありがとう!」と言って帰っていく。毎回これの繰り返しである。

 きっとみんな、上には上(下には下?)がいることを確認して、安心したいんでしょうな。

−−−

 ここしばらく、京都は東大路界隈に花灯路がともっているんだぜ。

夜暗くなるとそれなりにキレイですが、すべて電灯なので、昼明るいときに通ると、電気コードだらけで相当じじむそうございます。
 
一角に黒山の人だかりができていたので、いったい何かと思って近づいてみると…
 
舞妓はんどした。ちなみにこれは、舞妓はんが「カイワレ大根の発芽」を演じているところどす。
 
突然現れた「狐の嫁入り」。お面には眼穴が開いていないようで、両脇から誘導されておられました。さてはトイレにでも行かれるんでしょうか。

 そうだ、京都にいよう。

 

3月20日(金曜) 深夜

 ウチの職場には以前から、「リフレッシュ長期休暇」制度というのがある。

 消化しきれなかった有給休暇が一定以上積み立てられると、最大1ヶ月間の長期休暇をまとめて取れる仕組みである。

 ただ、実際に取るとなるとなかなか勇気が出ないもので、いまだに誰一人として取ったことがないという幻の制度としても社内で有名だった。抱えている仕事がある中、1ヶ月間休むというのは、確かにかなりの思い切りが必要である。

 しかし先日、先輩のAさんが遂に、この制度を使いたいと人事部に申請した。おお、すごい勇気だ! 果たして申請は認可されるのか!?

 興味津々で成り行きを見守っていたのだが、返答は「NO」だった。そして、その理由に脱力した。

 「前例がない」からダメだというのだ。

 …どんなことでも最初は前例がないのは当たり前ではないか。前例がなければ認められないなら、新しい制度は何事も認められないことになる。

 だったら新製品の発売も、新しい手術法の実施も、「前例がない」からダメなんでしょうかねえ。ポクポクポク。

 

3月18日(水曜) 深夜

 知人Sさんが最近、i-phone を買った。

 携帯電話は持っているのに、どうしてこんなモノを新たに買い足したのかと訊くと、「インターネットができるから」とのこと。確かにディスプレイは携帯電話よりも大きくて立派だし、操作しやすそうである。ノートパソコンを持ち運ぶ手間を考えたら、便利は便利なのかもしれない。

 ただしSさんいわく、

 …だったら自宅のデスクトップPCで閲覧したほうが余程快適なのではないか? 

 いやまァ、ぼくも新しい登山用シュラフを購入したときは、布団の上にシュラフを敷いて寝ながら「保温性がよくて快適だー!」とか言ってたクチなんですが。

 合理性とか関係なく、新しいモノに接するというのは、けっこう大切なことなのかもしれません。あ、そういや、まだ携帯電話でネットしたことないや。 

 

3月17日(火曜) 夜

 本日の生ジューススタンド。

 モノはあるのに臆面もなく「売り切れ」と言われると、なんだか馬鹿にされたような気持ちになってくるのは、ぼくの受け取りかたが被害的にすぎるんでしょうか。普通の人はこういうのを見ても、「ああ、あるけど売り切れなんだね」と心穏やかに通り過ぎるんでしょうか。

 そもそも飲むつもりもなかったんですが、こうやって勝手に腹を立てて、ひとりで寿命縮めている自分が不憫でなりません。

 

3月16日(月曜) 深夜

 職場の洋式トイレで小用を足した後、便器の中に痰を吐いたら、飛んできた「お釣り」が顔にかかった。

 一瞬なにが起こったのか理解できず、そのまま茫然と固まってしまったのだが、付着した水滴が頬を伝って垂れ始めたところで我にかえり、あわてて石鹸で洗顔したのだった。そりゃあもうゴシゴシと、何度も何度も、顔の皮膚が擦りむけそうになるくらいまで。

 なにしろ自分のおしっこのみならず、他人のうんこだって混じっているかもしれないのだ。こんな汚水がまさか顔に付着するなんて…。いったいぼくが何をしたというのだ? 痰の神様が我に試練を与え給うたのか!? こんな神様などくそ食らえである!!

 そういや 「天に向かって唾を吐く」という諺があって、これは「相手に危害を加えようとして、それがそのまま自分に返ってきて損をする」という意味だったはずだ。しかし今回の「便器に向かって痰を吐く」は、誰かに危害を加えようとする意図などないにもかかわらず、返ってくるのは自分の痰どころか、他人のおしっこやらうんこやらが混じっているかもしれない汚水なのだ。まったくもって納得がいかない。

 思い返すとこれまでの人生、「天に向かって唾を吐く」ような真似はあまりしてないつもりだけれど、「便器に向かって痰を吐く」ようなことは何度も経験しているような気がしてきました。悪気はないのに余計なことをして、エラいことになってしまうというような。

 今回の貴重な教訓: 痰は一旦トイレットペーパーに出してからトイレに流すべし。

 教訓というのは得てして地味なものであります。

 

3月14日(土曜) 深夜

 高島屋京都店にて、ビタクラフト(米国の高性能調理器具メーカー)のフェア。

 高性能鍋のセットだけに値段の高さにも驚くが、それに負けず劣らず、「ウルトラ特別セット」というネーミングセンスにも驚いた。ウルトラ特別って。

 小学生の頃、自分で考えたロボットに「スーパーウルトラ スペシャルメカ」とか命名していたことを、ふと思い出しました。

 

3月13日(金曜) 深夜

 本日のCDプレイヤー。

 「スリム&コンパクト、おしゃれなCDラジオ」

 パッケージに自ら「おしゃれ」と書いてるようなモノに、おしゃれなものなどないことを再確認いたしますな。おまけにCDラジオだし。

−−−

 平日の晩酌はもっぱら、発泡酒1本+缶チューハイ1本と決めている。

 発泡酒2本でもいいのだけれど、どうせなら日々の暮らしの中で変化を楽しみたいという、誠にしみったれた魂胆からこのようにしている次第である。

 そして気がつけば、発泡酒1本+缶チューハイ1本の日々がかれこれ7年以上続いている。変化がないにも程がある!!

 しかし考えてみれば、どんなに波乱万丈な人生を過ごしている猛者であっても、「変化に富んだ毎日」を来る日も来る日も送っていたら、それは次第に変化のない日々へと天下りしていく。いつも変化に富んでばかりであるという点で、まことに変わり映えのないマンネリズムの繰り返しに陥ってしまうのだ。

 変化というのは時おり不意に訪れるからこそ変化なのであって、変化し続けているというのは、変化していないのと同じことなんである。

 そしてさらに屁理屈をこねるなら、まったく同じ繰り返しなどという事柄は世の中に存在しない。

 毎晩同じ時間に、同じ発泡酒と缶チューハイを飲んでいるとしても、そのときの気温や湿度は微妙に違っているはずだし、心身のコンディションだって同一ではないはず。万一それらが全て同じであっても、昨日と今日とを比べたら年齢も記憶も一日分が加算されているのだから。

 したがって、変化というのは結局、それに気づくか気づかないかの問題ということになる。

 ぼくの場合、毎晩決まって発泡酒1本+缶チューハイ1本であるからこそ、日々の微妙な違いが感じられる。「ああ、今日はアルコールが不味く感じられるな」だとか、「今日は炭酸が美味く感じられるな」だとか、「今日はいつもより暗い気分だな」だとか。まさに波乱万丈である。

 結論: 真の波乱万丈は同じような毎日の繰り返しにあり。ああ、波乱万丈の我が人生!!

 

3月11日(水曜) 深夜

 同僚のNさんが職場で共用している茶器を落として割ってしまった。

 当のNさんも「どうしよう…上司にバレたらどうしよう…」と、ひたすら狼狽たえるのみ。

 しかし茶器といえば千利休、千利休といえば侘び寂びである。割れたり欠けたりした茶器こそ閑寂な趣きがあって素晴らしい、というのが茶の湯の精神であるから、こういうときこそ胸を張って申告すればいいのではないか。見たところ大量生産品の安物っぽいけれど、こうやって偶然欠けたことによって、世界でひとつしかないオリジナルの茶器へと昇華したわけなのだから。

 …それにしても、これまた派手に欠けたものである。

 侘び寂びといえば通常、わずかなヒビや欠けにとどまっている場合が多いが、今回の茶器は既成概念にとらわれない大胆な侘び具合と言える。単なる「侘び」を通り越して、「激侘び」や「ギガ侘び」といった新たな境地に達したと言ってもよいのではないか。

 常に新しい表現を求め続けた茶道にとって、いよいよメガマック的な発想を詫び寂びに取り入れる時期にさしかかっているのかもしれない。

 そして茶器を大胆に割ったNさんは、臆することなく、「侘びを入れました!」と上司に報告すればいいのだ。…ん、侘びを入れる?

 

3月10日(火曜) 深夜

 本日の自転車。

ししゃもマシン かにみそマシン

 このマシンの持ち主がどうか「ししゃもが好きで好きでたまらない」「かにみそが好きで好きでたまらない」人たちであってほしいなァと、思うのはただそれだけです。これが奇を衒って貼ってあるだけだったら、相当がっかりションボリだ。もっとはっきり言うなら、大いなる失望である。

 …とか言ってるぼくも、高校生時代はスキーの板に「ごま豆腐」のシールを貼ってたクチなんですが。もちろん奇を衒って。当時はあれが「異化しててカッコイイ」と粋がってたんでした。ああ、自分で自分を責めたい。

 皆さんも過去の自分にはかなり厳しいのではないでしょうか? 

 

3月9日(月曜) 夜

 久しぶりに食卓の写真でも。

「冬の悦楽、おでん好物づくし」
大根、焼き豆腐、手羽先、厚揚げ、牛スジ、煮抜き卵…すべて好物ばかりで固めてみました。日本酒がいくらあっても足りません。
 
「大根の葉っぱのピリ辛ごま和え」
おでんで使った大根の葉っぱを、ごま油で炒めて、タカノツメと出汁とすりゴマで和えたもの。原価がタダ同然なのが嬉しい一品。
 
「鶏唐揚げのおろしポン酢」(おろしポン唐)
唐揚げを揚げるときの油って、新しい油よりも、何度か揚げた古いやつのほうが、風味が出て美味しく仕上がることに気づきました。
「自家製手抜きラーメン」
スープは醤油+ウェイパー+みそ+豆板醤。ラーメンはスーパーで売ってる半生タイプの卵麺。これはこれで結構イケます。
 
「豚バラ肉と小芋の煮っ転がし!」
煮っ転がし、と言うとあまりに牧歌的で平和ボケしそうなので、エクスクラメーションマークを付けてみました。煮っ転がし!!
「わいせつ物指定の小芋ちゃん」
うっわー、エロい小芋やのう…。うっひっひ、もうこんなになっとるやないけ…。ヌルヌルになっとる。上の口ではイヤと言うても、これはなんや。
「わいせつ物ではない普通のお好み焼き」
なんや? こらァ全然エロうないお好み焼きやのう…。もっとこう、交わいをグッと連想するようなお好み焼きやないとアカン、アカン!!
 
「もうこりごり、ちくわぶおでん」
東京在住の方のすすめで「ちくわぶ」を入れてみたところ、なんていうことでしょう! ちっとも美味しくないではないですか!!
「無意味に贅沢、かにキムチ鍋」
かにが半額で売られていたので、かにキムチ鍋にしてみました。あまり上等じゃないかには、身よりも出汁がうまい。
ホタルイカと菜の花のゴールデンコンビ」
いやー、もう、この取り合わせが好きすぎてタマランのですよ小生は。ちなみにホタルイカは、目玉だけでなく、口もとると美味しくなります。
 
「ミドルエイジ讃岐うどん」
歳をとるとこういう讃岐うどんが好きになってきます。そして、山芋のネバネバにほのかなエロ妄想を重ね合わせつつ、ションボリするのです。
「チマチマした夕食全景」
こんな感じで日々、たいそうチマチマ夕食を独りでむさぼtっておるわけです。ちなみにこの日は、イチゴがあるぶん贅沢デー。
「手作りボロネーズのスパゲティ」
スパゲティと呼ぶかパスタと呼ぶかで、お洒落度合いが異なってくるという説もありますが、上の写真のはスパゲッティーニです。
 
「野菜と肉のトマト煮込み」
肉と野菜を炒めて、ホールトマトとコンソメで煮込んだだけの手抜き料理。こういうのばかり作るようになったら、そろそろ人生終わりどきです。
「水菜と豚肉のさっぴり炒め」
「さっぱり」と「ピリ辛」をかけて「さっぴり」となっております。説明しないと誰にも気づいてもらえなさそうなので、恥を忍んで申し上げます。
 
「スペイン風オムレツと思うんですが」
溶き卵にミートソース、ほうれん草、チーズを載せて作る簡単オムレツ。でもスペイン風って、全然こんなのじゃなかったかも。
 
「ホワイトシチュー定食、鼻毛カッター添え」
ちょっとがんばってホワイトシチュー定食&白ワインと決めてみたんですが、背後に青い鼻毛カッターが写り込んでいて茫然。
 

 

3月7日(土曜) 夜

 不景気なのに土曜出勤。

 というわけで、朝から職場に出向いて仕事を済ませた後、これまた不景気なのに高島屋の紳士靴売り場に立ち寄って、一昨日から引き続いて「カジュアルっぽい運動靴」を物色していたんでありますが。

 ちょっと気に入った靴があったので店員に申し出て、試し履きしようとして赤面した。両足の靴下が微妙に違うヤツだったのだ。

 咄嗟に「やっぱり試し履き、やめときます!」と言って、そそくさと売り場を後にしてしまったのも重ねて恥ずかしい。せっかく靴を出してくれた店員さん、本当にすみませんでした。

 そしてぼくは今日、左右の靴下が微妙に違ったままで仕事していたのか。なのに、後輩に真顔でエラソーなこと言ったりしてた自分…。

 それにしても靴下って、左右が微妙に違っているだけでびっくりするくらい破壊力がありますな。通り魔に刺されて倒れてもギャラリーから笑われそうで不安。

 

3月5日(木曜) 深夜

 ABCマートで靴を物色していたとき。

 店員から「どんなのをお探しですか?」と訊かれて、とっさに「カジュアルっぽい運動靴なんですけど」と答えて失笑されました。

 齢を重ねていることを肌で実感いたしますな。

−−−

 やらなければいけないことを複数抱えているとき、どういう順序で片付けていくか?

 たとえば、終わらせるのに長時間を要する「仕事A」と、中くらいの時間がかかる「仕事B」、短時間でやっつけられる「仕事C」という3つの課題に直面しているとする。こういうときぼくは、ボスキャラ的存在である「仕事A」から着手するというのが今までのやり方だった。

 はじめに厄介な仕事を片付けて、早く気持ちを楽にしたいという腹である。弁当における「苦手なものから食べる」派というか、トイレにおける「まず大便を出してから小便をする」派というか。とにかく、まずは核心を解決してから、周辺の些事に移るのがやり方だった。

 我ながら勤勉だなァと自負していたし、核心を避けて周辺の些事からチマチマ手をつけている輩の姿を見るにつけ、なんて回避的な野郎だと軽蔑していた。

 しかしながら、このやり方にはひとつだけ欠点がある。それは、はじめに取り組む仕事が厄介なものであるだけに、いつまでたっても着手する気になれず、追い込まれて結局どうしようもなくなってしまうということ。勤勉であるがゆえの代償と言えば聞こえはいいが、実際には何もできていないのだから世話なしである。

 そこで最近、とりあえず簡単にやっつけられる「仕事C」から片付けることにしてみたところ、これがすこぶる具合がいい。なにしろ、簡単にやっつけられるから気軽に着手できる し、それでうまくいくと自信がついて嬉しいから、興に乗って次の「仕事B」も難なくクリアできる。するとますます勢いづいてきて、最難関の「仕事A」にもそのまま取り組めるという次第。

 行動の初期に報酬が与えられたほうがモチベーションが上がるという「行動療法理論」を、身をもって感じさせられた形である。

 そこで本日も、いざ洗濯機の中身を干さんというとき、まずは靴下や下着から着手して、その自己効力感を利用してTシャツを干した勢いでもって、最後の砦であるYシャツ(しわを伸ばさなくちゃいけないから大変なんである)もさほど苦なく干すことができたのでありました。 最初に面倒なYシャツを干さなきゃならないと思うと途端におっくうになって、そのまま放置した挙句、もう一度洗い直しという憂き目に遭うことが今まで多かったもので…。

 …というか、洗濯物ひとつ干すにもモチベーションだの行動療法理論だの黙考しないとコトが進まない性分を、とりあえず何とかしたい。

 「馬鹿の考え、休むに似たり」とは、正にこういうことです。

 

3月4日(水曜) 深夜

 職場で所用あって別フロアの部署に出向いたら、若者が上司から叱られていた。

 上司:「キミ、自分に対して問題意識って持ってる?」
 若者:「は、はい…持ってるつもりです」
 上司:「どういう問題があるって自覚してるの?」
 若者:「いろいろありますけど…たとえば仕事の優先順位のつけかたが下手とか、スケジュール管理が甘いとか」
 上司:「ま、そういうのもあると思うけど、じゃあ、自覚してないところではどういう問題があると思う?」
 若者:「え、自覚してないところですか? ええと、そうですね……どうしても自分に甘いっていうか、どこか妥協してしまうというか」
 上司:「そう、そうなんだよ。分かってるじゃないか。このくらいでまァいいかって自分で思っちゃってるんじゃないの?」
 若者:「はい、そうかもしれません」

 久しぶりに名言を聞いた気がします。「自覚してないところでは、どういう問題があると思う?」

 自覚してないことを本人が言えるわけがないし、言ってる時点で既に自覚してる。これって、「誰にも絶対話せないことってどんなことですか?」とか「無意識の願望ってありますか?」とかみたいな、むちゃくちゃな質問ではないか。

 ま、たいていのことは、自覚してないことさえ自覚していないのかもしれませんが。

 だからこそ、「自覚していないことさえ自覚していない」ことがあるということを自覚しておくのは、きっと大切なんだと思います。

 

3月3日(火曜) 深夜

 本日のマンホール。

 一見すると緻密な作業のようだけれど、よく見ると微妙にズレてたり材質も色も違ってたりして、丁寧なんだか杜撰なんだか分からない。

 そもそも誘導ブロックの上にあとからマンホールなど設置するからいけないんではないか。諸事情あるのかもしれないが、都市計画の時点では誘導ブロックのことなど眼中になかったのではないかと勘ぐりたくもなる。

 アイツらどうせよく見えてないんだからコレで十分でしょ、みたいな発想でないことを願うばかりですな。

 

3月2日(月曜) 深夜

 毎月第一日曜に開催される、京都は東寺の「手作り市」に行ってきました。

…と言っても「手作り市」とは名ばかりで、ほとんどは家庭の不用品が節操なく並べられているだけです。
 
数少ない手作りモノ。こんな貧相なキューピーさんは見たことがありません。誰かが描き直したんでしょうか。
 
これも数少ない手作りモノ。自分で撮った写真アルバムが堂々と売られてました。どうやら有名人を撮ったもののようですが、タダでも要らない。
 
東寺の境内で見かけたカラスの行水。どのくらい行水するんだろう? と観察してみたところ、平均で8秒くらいでした。早っ!!
 
これも東寺の境内にて。どうしてこういう配色になったのかよく分かりませんが、仏様にケチをつけるとバチが当たりそうなので、まァいいです。
 
せっかくなので五重塔も拝見しました。ちょっとだけ奇を衒って斜めに撮ってみたら、ため息が出そうなくらいにツマラナイ写真になりました。
 
五重塔の四隅には、こんな「邪鬼」たちが柱を支えています。重いものをあげる「ジャッキ」の語源が「邪鬼」にあることは、ある程度知られているウソです。
 

 


2009年2月のプチ日記 

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