2009年6月のプチ日記

6月30日(火曜) 深夜

 仕事帰りの電車で、隣座席に100円玉が落ちていた。

リアル写真です

 誰もいない路地裏とかだったら迷わず頂戴するところながら、ここは乗客がたくさんいる車内である。手にするのはさすがに憚られ、さて他の乗客がどういう反応を示すんんだろうと、横目で見守っていたわけですが(これは周囲の乗客も同じで、皆の視線がさりげなく集中していた)。

 100円玉の効果は絶大だった。あたりの席がどんどん埋まっていき、立っている乗客も現れるなか、隣席だけが最後まで「空席」のままなのだ。

  1. ん? 100円玉がある!
  2. 座るためには、とりあえず100円玉を取らなければならない。
  3. ただ、取った100円玉を失敬するのは恥ずかしい。
  4. かといって、じゃあどうすればいいのだ!?
  5. …やっぱり座るのやめとこう。

 おそらくこのような逡巡が一瞬のうちにかけめぐり、座るに座れなくなっているのだろう。その結果、いつまで経っても空いたまま時間が過ぎていく。空白の一席をめぐって、周囲の乗客たちの間に見えない緊張が張りつめる。ああ、我が心、もはやここにあらずというか、ここにありすぎというか。

 …とそのとき、ひとりの女子高生が近づいてきたかと思うと、100円玉をサッと取り上げて窓の下に置き、何事もなかったかのようにお座りになったのでした。うわあ、なんという勇気だ。それも高校生なのに! おまけに100円玉への未練を微塵も感じさせない潔さ!!

 ここでようやく気づいたんですが、100円玉ひとつにここまで手に汗握っていたのって、広い車内でぼくだけだったのかもしれません。

 

6月29日(月曜) 深夜

 鎖骨の手術から2週間経過。

 本日の診察で抜糸してもらいました。医者によると「とくに変わりないですし、問題ないですね」とのこと。変わりないのか…。

 鎖骨骨折のススメを ちょこっと更新しました。

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 同僚のNさんが、雑談の折にこんなことを言っていた。

 「それって、一姫二太郎、三なすびってやつですよね」

 一姫二太郎は聞いたことがあるが(子どもは第一子が女の子で、第二子と第三子が男の子がよいという意味だったか?)、三なすびって何だ? 最後になすびを産まないといけないのか!?

 三なすびというのは確か、たしか「一鷹、二富士、三なすび」だったはずである。よく分からないけど、縁起がいいものとして有難がられているんじゃなかったろうか。

 ただ、ぼくのほうも記憶が不確かなだけにツッコめず、なんとなく違和感を抱きながらも、ただただ曖昧な笑みを浮かべてやりすごしていたわけですが。

 帰宅してから広辞苑で調べてみたら、次の通りだった。

 【一姫二太郎 】
  子を持つには、長子は女で、次子は男がよいという言いつたえ。

 【一富士二鷹三茄子】
  縁起の良い夢を順に並べていう語。駿河の国の諺で、一説に駿河の名物を言うという。

 「一姫二太郎、三なすび」が誤りなのは正解だったけれど、「一姫二太郎」についても「一富士二鷹〜」についても、いずれも微妙に勘違いしていたのが恥ずかしい。まさに「目くそ鼻くそを笑う」である。

 …でも、富士と鷹はともかくとしても、なすびの夢ってどんなのなんでしょうかねえ。一生のうちに見る機会あるだろうか。

 

6月26日(金曜) 深夜

 全身麻酔のとき、普段言わないようなことを口走ってしまうケースがあるらしい。読者のかたからメールで教えていただいた。

 理性をつかさどっている脳の部位から麻痺していくため、日頃は抑えている本音が漏れてしまったり、意識下にある欲求が吐露されたりしてしまうのだろう。麻酔の導入には、かつて自白剤として(某オウムなどで)用いられていた薬が使われることも多いらしく、おまけにそのときの記憶は残らないというから、ひょっとするとぼくも何かよからぬことを口走っていたのではないかと、いささか不安になってきたり。

 まァ、昨今の麻酔導入は数秒で「落ちる」らしいからそれほど心配していないのだが、手術中になにか言っていたとしたら恥ずかしい話である。

 「親子丼の並でいいよ」

 こんなセリフを口走っていたとしたら、きっとスタッフ一同から失笑されていたことだろう。

 そういや全身麻酔からさめるとき、枕もとのチューブの束をひっぱられる感じが気になって仕方がなく、出にくい声を振りしぼって「引っぱらんといて…引っぱらんといて…」とつぶやいていたような記憶がおぼろげながらある。

 これに気づいた看護師が「この患者さん、なんか引っぱらんといてって言ってはりますけど…」と医師に伝えてくれたものの、当の医師は少々ムッとした様子で「ええから気にせんとバイタル見てて!」みたいなことを言っていたような気がする。

 「引っぱらんといて…」

 自白剤を使ってもぼくはこんなことしか言わないんだろうかと、暗澹たる気分になったことを今さらながら付け加えておきます。

 

6月25日(木曜) 深夜

 風呂せっけんに付着した陰毛って、手でこすってもお湯で洗ってもなかなか取れないので、つい諦めてしまいがちですが。

 お湯をかけたせっけんで太ももを下から上になぞればアッという間に取れることが分かって大興奮しております。

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 鎖骨を手術したときの話を、職場でいささか得意げに披露していたところ。

 同僚Iさんが同じく全身麻酔の経験があるとのこと。おお、そうでしたか! だったら麻酔からさめたときのつらさを分かち合えるに違いない!!

 このように喜び勇んで、いかにタイヘンだったかを滔々と語ってみたのだが、Iさんの反応は「…え、なんとも思わんかったけど」。これではまるで、ぼくが痛みに弱すぎるみたいではないか。

 手術台で痛がっていたときには実際、傍らの看護師が「通常よりも痛みが強く出ているようです!」と言っていたんである。

 …しかしひょっとしたら、あのときの看護師は気を使って、「このひと痛がりです!」と言いたいところ、患者を傷つけないよう婉曲に表現してくれていただけなのかもしれない。

 数年前に親知らずを抜歯したときも、ものすごく痛くて死にそうだと同僚に話してそれなりの同情を得ていたところに、同じ経験がある先輩Kさんから「そんなに大騒ぎするほどのことだったかなァ」と水を差されて、なんともバツが悪くなったのを思い出す。

 そういやずいぶんと前に、大きな口内炎ができて同僚に悲鳴をあげていたときも……。

 ま、痛みに対して繊細ということで、ひとつよろしくお願いします。

 

6月23日(火曜) 深夜

 街を歩いているとFREITAG(フライターグ)のかばんをよく見かける。

 このかばんの生地に使用済みのトラック幌が用いられているのは有名な話である。これを聞いた当初は「トラック幌のリサイクル品だからさぞかし安いんだろう」と思ってたのだが、どれも平気で2万円とか3万円とかすることを知って、恥ずかしながら驚いてしまった。

 「ト、トラックの幌が万札でっか!?」

 まるで爺さんである。

 いやまァ、ひとつひとつ手作りだからどれも一点ものだとか、生地が丈夫で耐久性&耐水性に優れているとか、リユース品だからエコだとか色々あるようだけど、それにしてもトラックの幌で大儲けしてしまうとはスゴイなァ…と単純に感心してしまうのでした。

 以来、街でトラックを見るたびに、「あ、かばんの素!」と思ってしまう自分が情けない。

かばんの素

 ま、表地に「陸運」とか出ているバッグなんぞはさっぱり売れないのかもしれませんが。

 エコとか考えるんだったら、フードマイレージと同じく、かばんマイレージ的に日本のトラックの幌を使いんしゃいと、これまた爺さんみたいな感じにて。

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 あと、DEAN & DELUCA(ディーン&デルーカ)のエコバッグもよく見かける。

 どうやらニューヨークやら東京やらで人気の総菜屋らしいけれど、これも平気で2万円近くしていたりするから驚かされる。

 今後は、総菜屋の前を通るときも、「あ、かばんの素!」と思ってしまいそうで、先行きが不安です。

 

6月22日(月曜) 夜

 ずいぶんと更新があいてしまいました。

 先日無事に退院して、現在は自宅でそれなりに過ごしております。

 「鎖骨骨折のススメ」というページに今回の入院の様子を詳しくレポートしてみましたので、興味とお時間があればご覧いただければ幸いです。

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 昔のホームページには、こういう「コンテンツ」と呼ばれるページがあったんです。で、何かコトがあると、その都度「コンテンツ」を増築していったんです。いまとなっては自分でもなんとなく懐かしい感じですが。

 でも考えてみたら、「コンテンツ」って新しいページを生成しているわけだし(自作だけど)、ブログで新たなエントリーをアップするのと似た原理ではないでしょうか。古くて新しいことって、意外とこんな身近にあったんですねえ。

 …全然違うのは勿論承知しておりますが、悔し紛れに適当なこと書いてみました。すみません。

 

6月14日(日曜) 昼

 明日からしばらく病院に閉じ込められそうなので、昨夜は好きなものを食べておこうと思い立って。

 「最後の晩餐」くらいの勢いで、食べたいものを注文したのが下の通り。

 串カツ、どて焼き、キムチ、冷奴、チヂミ、そしてビール。ああ、ぼくにとって晩餐とはこういうものだったのかと、我がことながら改めて情けなくなってきますな。

 それでは行ってまいります。夜9時就寝、朝6時起床、完全禁煙・禁酒という、かつて経験したことのない健康的な生活が逆に不安。

 

6月13日(土曜) 夜

 昨日から入院しております。手術は15日(月)に決定。

 入院初日はいろんなスタッフ(執刀医、麻酔医、看護師などなど)との面談やいろんな検査があってバタバタしていたものの、それらがひととおり終わってしまえば手術までとくにやることがない。主治医からも「外泊してもいいよ」と言われたので、本日は自宅に外泊して、こうやって更新しているという次第。

 明日の夕方までには帰ってきてくださいねと釘を刺されているのだけれど、退屈な病院生活からしばらく逃れられるのは嬉しい。ただ、現在のぼくの本拠地はあくまで「病室」であるから、自宅で過ごしているのが外泊中だというのが妙な気分だ。

 ちなみに病室は、いちばん費用が安い総室(4人部屋)。どんな人と一緒になるんだろうと心配していたら、案の定いささかゾッとしない面々で。

 …とまァ、こんな感じで、先行きが少々不安な入院スタートとなりました。

 あと、ベッドに横たわって居眠りしていたら、主治医から「もう少し症状が悪化しないと治療方針を決められないから、これから毎日バッティングセンターに通ってもらいます」と宣告される、という恐ろしい夢で目が覚めたことを付記しておきます。

 

6月9日(火曜) 深夜

 こうして右腕が不自由になると、日常生活を送るうえでいろいろと頭を使う。

 たとえば歯を磨くにしても、洟をかむにしても、うんこを拭くにしても、いままで右手もしくは両手でやっていたことを左手だけでやるのは結構難しい。でもこれが、しばらく試行錯誤しているうちになんとなくコツがつかめてきて、気がつけば左手だけでそこそこ上手くやれるようになっていたりする。

 こういうのって、ちょっと前に流行った「脳力トレーニング」みたいなものではないか。

 だったら、「骨折で鍛える右脳トレーニング」みたいなキャンペーンはどうだろう。あえて右手を骨折することによって、生活への工夫に正面から取り組まざるをえない状況に自らを追い込み、それによって脳力を鍛えようというわけである。マニュアルにはおそらく、効果的で安全な骨折法なんかが紹介されることになるだろうか。

 脳力を鍛えるために骨折するなんてバカげてる! とおっしゃる向きもありましょうが。

 本来は充実した時間を持つための「脳力」なのに、それを鍛えるために時間をどんどんトレーニングに費やしましょうというのと、骨折で脳を鍛えましょうというのは、実はあんまり違わないんじゃないでしょうかねえ。

 ぼくは謙虚なので、「脳力なんぞは鍛えられなくてもいいから骨折しない」ほうを迷わず選びます。

 

6月8日(月曜) 夜

 私事で恐縮なんですが、先週末、自転車で転倒した際に肩の骨(鎖骨)を折ってしまいまして。

 総合病院の整形外科を受診したところ「鎖骨遠位端骨折」との診断で、手術と一週間程度の入院が必要ということになってしまいました。

 

 主治医が言うには、「これは手術しないと難しいですね。まァ、手術しないで固定して様子を見るという選択肢もありますけど、うまく骨がつながらない可能性のほうが高く、もしそうなったらずっと後遺症が残るか、もしくは身体の別のところから骨を取ってきてつなぐ手術が必要になります」「私としては手術をおすすめしますけれど、最終的に決めるのは本人さんですから。どちらの選択肢でも治療は担当します」とのこと。

 鎖骨というやつは、中央部分で折れたものは列断面があまりズレないので手術しなくても治る場合が多いが、ぼくのように端っこで折れているうえにズレが大きいと、そのまま放置してもうまくくっつかない場合が多いらしい。で、へんな風にくっついてしまうと、それを矯正するのはちょっと面倒なことになるんだとか。

 それでも、ひょっとして主治医の勘違いかも…という希望的観測をもって、近所の小さな整形外科医院の先生にも診てもらったんですが、レントゲン写真を見るなり「こら手術やわ」と言われてしまいました。ああー。

 

  …というわけで、入院したらしばらく更新できないと思いますが、ご了承いただければと思います。

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 折ったのが右肩の骨なので、右腕が痛みでほとんど動かせないうえ、力が入らないのがつらい。

 なにしろ、靴下を穿こうとしても、右腕が使えないとにっちもさっちもいかないのだ。

 こうやってキーボードを入力するのも正直ちょっとつらくて、左手で右腕をつかんで右側ホームポジションまで誘導し、あとはなんとか指先を軽く使ってタイピングしているという体たらく。マウスを使いたいときは、再び左手で右腕を持ち上げてマウスまで誘導。しんきくさくて仕方がない。

 ほかにもたとえば、腕が上がらないからTシャツを着れないし、やむなくボタンダウンのシャツを着ることになるのだが、今度はシャツを洗濯しても皺をのばせない。トイレに行っても、ちんこを片手でズボンから出さないといけないから、悪戦苦闘して周りから妙な目で見られてしまう。

 身体って、一箇所でも動かせないとこんなに不便なんだと、愕然とさせられますな。

 

6月5日(金曜) 深夜

 腰が低いですね、とよく言われる。

 短足なので腰の位置が低いという意味かもしれないが、おそらくは低姿勢という意味なのだろう。この日記ではエラソウなことも書いているから、どういう印象を持たれているかよく分からないけれど、職場なんかでは結構このように言われる。

 確かにそうかもしれないなと自分でも思う。そしてこれにはちゃんと理由がある。なんとなれば、自分などは動物本来の世界ならとっくに淘汰されるような個体だと思っているから。

 小学生の頃からそうだった。腕っぷしも弱くスポーツもできない。こんなヤツは教室の片隅に追いやられるのがオチであるが、それでもなんとか生き延びる術を模索してしまうのが生命の哀しい性である。

 教育熱心だった親に塾通いさせられていたおかげで勉強は多少できたから友だちに宿題を教えたり、当時からエロへの興味だけは高かったから友だちにエロ・ストーリーテリング(友だちを主人公にしたエロ空想ストーリーを本人に語り聞かせる)したりして、隙間をぬうようにして辛うじて存在を認められていたような気がする。

 原始時代に身体が不自由だった者が、みんなが狩りに出かけているあいだ洞窟の壁に絵を描いて、それを見て喜んだボスから食糧を恵んでもらうようになったのが芸術の始まりだという説があるけれど、正にそんな感じである。

 そして気がつけば、隙間産業みたいな仕事の、その中でもさらに隙間的なポジションで口を糊している現在。だから、立派な企業に就職してたくさん給料を稼いでいる人たちには、素直に感謝と尊敬を禁じえない。たくさん働いて、たくさん製品を作って、たくさん黒字を出して、たくさん納税してくれているからこそ、ぼくなども今の暮らしを享受できているわけですから。

−−−

 …コホン。ずいぶんと謙虚なことを書いてしまいました。

 もちろん、己の腰の低さをアピールしてポイントをあげたいという下心もあるけれど、弱者はこうやって常に己の弱さをアピールして、ボクは安全な存在だから淘汰しないでネ! と信号を発していないと安心できないものなのです。

 

6月4日(木曜) 深夜

 「同じ経験をしている者同士は気持ちを理解しあえるけれど、そうでなければお互い理解しあえない」

 このようなコトをおっしゃる御仁がときどきいらっしゃる。

 ぼくなんかだと、たとえば既婚者から言われるわけである。「…でもまァ、独身のおまえには分からんやろうね。家庭を持つことの苦労っていうのは」。

 そうかもしれないけれど、それは違うんじゃないかとも思う。家庭を持っている人といっても事情はさまざまであって、親の資産で何不自由なく暮らしている夫婦もあれば、障害を持った子どもと共に身を削る思いで暮らしている夫婦だってあることだろう。苦労なんて人それぞれ、ではないか。

 ガン患者が医者に向かって、「先生はガンになったことがないから私の苦しみが分からないんだ」みたいなことを言ってしまうのも同じことである。十把ひとからげにガンといっても、その苦痛はさまざまだろうし、もし仮に医者が末期ガンだったら苦痛と意識混濁で、患者の苦しみを理解する余裕すらないかもしれない。

 それに認知症や脳死状態だったらどうか。「先生は認知症じゃないから私の苦しみが分からないんだ!」「先生は脳死状態じゃないから息子の苦しみが分からないんです!」なんて言えるだろうか。ぼくが将来もし認知症になっても、同じ病気を抱えた医者にだけは診てもらいたくない。

 似たような経験をしている者同士だからこそ共有できる思いというのは確かにあるのかもしれない。だからこそ世の中には自助グループのような集いがたくさんあって、それなりの存在意義を保ちつつ運営されているのだろう。

 ただ、だからといって、それが全てだとも思わない。たとえ同じ経験をしていなくても相手のことをある程度理解できるという、成熟した想像力のほうがずっと大切であることは自明なんではないか。

 …なんだかクサい正論を書いてしまったけれど(おまけに前にも同じようなことを書いた気がするけれど)、歳をとると当たり前のことを何度も言いたくなるということでどうかひとつ。

 少なくともぼくは、自分と同じような人間にだけは「理解」されたくありまへん。

 

6月3日(水曜) 深夜

 職場の廊下で、すれ違いざまに同僚Aさん(女性)からクスッと笑われた。

 うわ、なんだなんだ。人の顔を見て笑うなんて失礼すぎるんじゃないか!?

 …と内心怒りにかられつつも、引きつった笑顔を浮かべながら 「人の顔みて笑うなんて失礼じゃないですか!(笑)」とAさんに抗議したところ、意外な反応がかえってきた。

 Aさん:「うわっ! いきなりどうしたんですか!?」
 ぼく:「いや、だから、あんまり人の顔みて笑うもんじゃないですよって。今回は相手がぼくだったからよかったけど」
 Aさん:「へ? あの、私、名倉さんの後ろにいるBさんに微笑みかけたんですけど……」

 振り返ってみると確かに、こちらを向いて手を振っているBさんの姿があった。追い打ちをかけるようにAさんいわく、「名倉さんには気がつかなくて、あいさつもせずに通り過ぎちゃってすいません」。うわー、やってもうたがな。

 被害妄想的なくせに自意識過剰。いちばん恥ずかしい形で自分の性向が露呈してしまい、もうどうにでもなれという感じです。

 しかしまァ、認知の否定的な歪みというのは、こういう実証経験を通じて変容していくのかもしれませんな。いままで嘲笑されていると思っていたけれど、実は存在にすら気にされていなかったのだと。

 それとも被害的な認知というのは、誰からも相手にされていないという寂しすぎる事実に耐えられないがゆえの、合理化的な防衛なんでしょうかねえ。

 いずれにしても大層もっさりした話です。

 

6月2日(火曜) 夜

 風呂に入ったとき、足の裏もタオルでこすって洗うとスッキリすることに気がついた先日。

 で、これは大発見だと意気込んで同僚に話したら、「え、今までタオルで洗ってなかったんですか!?」と呆れられてしまった本日。

 もしかして当たり前のことだったんでしょうか。下着って毎日替えると気持ちいいんですよ! みたいな。

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 近所にある「占い&似顔絵ショップ」に新作イラストが登場した。

 前作(5年以上前にこの日記で紹介したはずだけど場所を失念)に勝るとも劣らない出色の出来映えである。これを見て自分の顔を描いてほしいという客はどういう人なんだろう。相当な精神的マゾヒストか、単なる好事家か。そうでなかったら、どんな人なのか遠くからでいいから見てみたい。

 人生ほとんど運できまる! と断言しているのもいい感じですな。それなのに下のほうをみると、小学生の家庭教師もやっておられて尚更いい。

 世の中にはいろんな人がいるから楽しい。こういうショップが長年にわたって続いている社会は、きっと悪くないと心から思います。

 

6月1日(月曜) 深夜

 本日のすぐに分からない。

 エンジンは遠くで守れない者お断り。

 これって分かる人にはすぐ分かるんでしょうか。初心者ぼくなどは「?」と思ってしばらく立ち止まったすえ、数秒間考えてようやく、おそらくこういうことなのかなと理解できた次第で。「バイクを駐車するときは遠くでエンジンを切ってください。これを守れない人はご利用をお断りします」ということですよねえ?

 自分の内言をそのまま文章にしてしまう豪快さがちょっとうらやましい。…いや、うらやましい、この、思ったことをそのままバーッと、いうのがね。

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 職場にて。

 「誤字脱字のあるファイルをリストアップしておいてください」と後輩にメールでお願いしたら、すぐに返信がかえってきた。

 「了解しました。ちなみに、どのファイルに誤字脱字があるのか教えていただけますでしょうか」

 ええと、あのですね……。ってことは後輩さん、あなたの仕事はいったい何なのですか?

 脱力のあまりタイピングすら困難になりかけたけれど、気を取り直して、「どのファイルに誤字脱字があるのか分からないので、それを調べてリストアップしてもらえますでしょうか」と再度お願いしておきました。

 ぼくの指示の出しかたが悪かったんですかねえ。後輩にとっては「エンジンは遠くで」の貼り紙みたいなもんだったんでしょうかねえ。


2009年5月のプチ日記 

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